歴史紀行 大阪城周囲の史跡から古代史を見る

 大阪歴史博物館での大阪の古代史紹介は、3つのパートに分かれております。まず最初の法円坂遺跡時代(外の茅葺の建物と基礎跡の椅子類が見られる場所です)、次に写真の孝徳天皇が遷都した難波長柄豊崎宮です。ここを舞台に前期難波宮時代(645年-683年)、その後の後期難波宮時代(726年-745年-784年)が続きます。それらを見て歴史の旅をしてみましょう。大阪歴史博物館最上階より難波宮史跡公園を見る。

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 まず最初の法円坂遺跡の時代ですが、これは4-5世紀の空白の歴史の中に存在します。中国南朝宋帝国(420年から479年/960年から始まる北宋南宋とは別の王朝)の正史「宋書」にある時代です。詳しくは倭の五王(讃、珍、済、興、武)の古墳時代413年から502年までの記録でありますが、日本では倭の五王に相当すると思われる応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の7天皇の時代なのです。この時期にに法円坂遺跡において大規模倉庫群と港湾施設が作られたと考えられます。

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 この時代はまた仁徳天皇陵の様な世界的規模の稀にみる大型古墳が作られた時代です。先の7天皇の天皇陵がどこにあったかを示しますが、安康天皇(奈良市宝来)以外はすべて大阪府にあります。応神天皇(羽曳野市譽田)、仁徳天皇(堺市大仙町)、履中天皇(堺市石津町)、反正天皇(堺市北三国ケ丘)、允恭天皇(藤井寺市国府)、雄略(羽曳野市島泉)。安康天皇陵も奈良の北西で阪奈道路の奈良側の入り口近くで大阪との入り口です。神武天皇以来奈良盆地の南部山側に天皇陵が集中(中央部は少ない)していたのが、この時代は大阪の百舌鳥・古市古墳群や奈良市北部に移行してます。

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 Facebookのに簡単な投稿記事を書きましたが、ここは国中から農産物を税として集めた国家の備蓄倉庫群です、日銀本店の地下金庫に相当します。つまり物々納税の時代に万単位の人間を食わす食料備蓄基地を大阪に置いたのです。大阪の上町台地は大阪湾と河内湖に挟まれた半島として南から北へ突き出ており、おまけに法円坂遺跡群の北側には大阪湾と河内湖の水路までありました。これは堀江の開削と呼ばれ人工的に掘った運河だそうです。日本の土木工事最初の大型工事であったかもしれません。https://www.facebook.com/hiroshi.mizutani.507/

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 大阪に在住している関係で、堀江という地名からこの水路は北堀江と南堀江を分ける長堀通りではないかと思いましたが、実際長堀通りを西から東へ通行して判ったのですが、松屋町通りの交差点を越えた辺りで急に登り始めます。水路が開削されておれば上町台地は登りません。本当はどこだろうと考えました。この堀江の開削水路は現在の大川(旧淀川/すぐ下流で堂島川と土佐堀川に分かれる)である可能性が有ると思います。あれは運河なのかと再認識しました。そのように考えると法円坂遺跡は備蓄基地として最適な場所だったのです。港湾施設は後に八軒屋浜(現在の天満橋)と呼ばれる港とその下流の中ノ島等商家の倉庫街へ発展していったのではと思われます。

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 この時代奈良はどうなっていたのか?1万年前位には恐らく亀の瀬の地滑り(大阪と奈良の間の峡谷での大規模地滑り)或いは縄文海進の影響で海抜の上昇がありその結果湖化しており、その水が引くのが縄文時代末期(約1300年前)と言われております。その為南の山岳地域の飛鳥にしか都が作れなかったと思われます。なぜか奈良盆地の真ん中には古墳を含め遺跡の数は少ないのです。約1300年程前に水が奈良盆地から干上がり、農地化や都建設が可能となり古代日本の首都になっていった時代なのです。629年から641年まで在位した第34代舒明天皇の万葉集の和歌に次のような歌があります。

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 「大倭には群山あれど、とりよろふ天の香久山 登りたち国見れば 国原は煙たち海原は鴎立ち立つ 怜し国ぞあきづしま大倭の国は」第34代 舒明天皇 この「海原は鴎立ち立つ」とは奈良盆地の香久山から見て北側の法隆寺方面にかけての土地が水で覆われていたのではないかと思わせる表現です。南側は水があったかどうかわかりませんが「国原は煙たち」と飛鳥方面は人が住んでいたことが解ります。この地に藤原京が建設されるのはこの歌から約半世紀後になります。

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 つまり4-5世紀には明日香で政治を行い、大阪で交易をするというスタイルが出来たのではないかと思われるのです。内陸の飛鳥と海辺の大阪は車の両輪の様に国家の政治と経済を回したのではないでしょうか。もう一つ考えなければならないのは、中国で戦乱や王朝の交代が有る度に、負け組(歴代の王朝)が朝鮮半島経由で日本に渡来してきたのではないかと思われることです。かつて大陸で覇を争った風俗文化言語や技術も違う一族郎党同士が再び日本の覇権を賭けて闘争する姿がどうも見えてなりません。その為戦略拠点として難波高津宮とか難波祝津宮等という副首都を大阪に作ったと考えられます。この頃から大阪は日本の中心だったのですね。

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 では2つ目の前期難波宮ですが、645年の大化の改新の後、政治は前期難波宮で行われたようです。大化の改新は仏教派と反仏教派の戦いでしたので、中国や朝鮮半島で先端流行している仏教が直接入ってきたと思われるのです。大阪の四天王寺も日本仏教第一という言葉で宣伝しておりますとおり、大阪が仏教の起点だったのです。この時代も奈良の明日香と大阪の難波宮や大津、信楽に遷都しており、逃げながらの政治が行われていたようです。その理由はやはり豪族間の覇権戦争はかなり熾烈だったと思われるのです。大阪の備蓄基地は前の時代の倉庫群と比べてもっと発展ていたのではないでしょうか?686年に前期難波宮が焼けてしまうのですが、これはどう見ても豪族同士の覇権戦乱の要素が絡んでいるように思えます。屋根も茅葺で火矢を放てばあっという間に燃えてしまいます。日本仏教第一を見て法隆寺も見て、仏像が欲しくなった方はこちらへ

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 奈良湖の水が抜け出し、奈良盆地中心付近の干拓が建設可能となってきます。奈良の水が現在の大和川となり大阪の河内湖に流れ込むようになりますと奈良と大阪の地理的な関係がますます近くなってきます。ドロドロでは無くなった明日香の南、橿原の地で676年に建設を開始、694年に藤原京に都が明日香から移されるようになります。この技術は建設の94年前から始まった遣隋使や遣唐使等で中国から入ってきた技術を使っております。特にこの都は中国の洛陽など先進地域の都市設計を真似ており、本格的な中国式首都が日本でも出来始めました。

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 もう少し詳しく言うならば、中国は隋(589年-618年)が建国して大阪より遣隋使(600年、607年(小野妹子)、608年、614年)が派遣されることとなります。遣隋使は遣唐使となり日中の往来は益々増大します。そうなると大阪での副首都機能がますます重要となり、744年恭仁京や紫香楽京などへ内乱逃避遷都していた聖武天皇の時代に後期難波宮が建設されます。後期難波宮の役割を負った時間は長く、710年にできた平城京の副首都として役割を担い、784年に長岡京へ都が移されるまで、約40年その機能は続きました。前期との違いは屋根は瓦を敷いていたことです。

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 難波宮跡の地図を見ると中央に朱雀大路が走っております。この道路は現在ありません。地図から外れますが都の南西の端に住吉大社があります。ここは倭の五王の時代から海の神を祭る廟でした。ここの神殿は船隊方式の建築工法を採用しております。三隻の政府専用船の横に戦艦がおり護衛する護送船団方式です。住吉大社の横は内湾の港になっており、船が係留できておりました。沖には砂洲が防波堤の様に横たわり、天然の良港となっていたのです。

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 古代の大阪と奈良は世界の文明の東の端に位置し、その道はシルクロード(現在は一帯一路と中国は言っております)となっております。シルクロードの東端ではこのような歴史があったのです。水の都大阪は古代の成り立ちから来ております。海外のお客様から大阪の由来をよく質問されます。色々な説がある中で、私は次の様に答えております。現在の国道25号線新世界北口から四天王寺にかけて大きな坂があります。この交差点の名前が逢坂、つまり「おおさか」です。それが大坂となりいつの間にか大阪となったという説です。実際お客様に逢坂登りを歩いて貰い体験して貰ったことがあります。大阪の意味は二度と忘れないとのことでした。このブログではすべて大阪で統一しております。以上大阪歴史博物館の古代史から推測されることを書いてみました。次の写真は逢坂交差点より300m西側の一心寺前です。その下は奈良時代のシルクロードの全図です。

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