熊本城1607年加藤清正が同時としては最新の土木技術を結集して作った戦国時代を象徴する軍事要塞です。築城主として加藤清正は有名ですが、その後細川忠利が熊本に入りました。その忠利に招かれてきたのが宮本武蔵です。明治になり多くの城が過去のものとなる中、1877年の西南戦争で熊本鎮台司令長官として鎮台兵3500名と共に薩摩軍13000人とここで戦ったのが谷干城です。熊本城の軍事的要塞としての威力が示されました。ホテルや新幹線、航空機の予約はこちら
2016年の熊本地震では石垣が崩れた熊本城がクローズアップされました。しかしながら熊本城は元々軍事要塞だったので、強固に建築されている場所とそうでない場所があります。2度の震度7で崩落した場所は、予算の関係で後回しになった場所ではないかと思います。地震対策をした場合とそうでない場合の建築費の違いがはっきりしたのもこの地震でした。熊本城は徐々に壊れた場所を補強していったのです。ACE ONLINE STORE
大天守と小天守が並び建つのが熊本城の特徴です。1877年の西南戦争で天守閣は2か所ともに焼け落ちました。2016年熊本地震で崩壊した所も2021年には修理が完了しました。加藤清正の後の城主は細川忠利。あの細川護熙首相の祖先です。忠利の祖父は千利休の弟子であったので、細川首相も貴族的な文化人の感じがしました。伝統は受け継ぐものです。そう言えば宮本武蔵の二刀流は刀だけでなく、文武の二刀流でもあったそうです。
熊本城の天守閣の特徴は、四面に配した千鳥破風と最上階の南北に作られた唐破風と呼ばれる建築様式です。「御鉄砲間御問」、「御具足之御問」、「御矢之御問」などの戦いの道具にちなんだ部屋名がつけられており、江戸時代には武器庫であったようです。小天守の石垣の上には忍び返しと呼ばれる敵の侵入を防ぐ鉄串が設置されておりました。
本丸御殿の床下には闇り通路と呼ばれている石垣でできた地下通路があります。地下通路は日本全国御殿建築の中でも異例のもので、御殿への正式な入り口も地下にあります。熊本城の防衛を知る見どころのひとつでもあります。
本丸御殿大広間の昭君之間は2008年に再建されましたが、2016年の熊本地震で各広間の壁が剥がれ落ちており、現在は見ることができません。ここは中国前漢の悲劇の美女であり「王昭君」の故事が描かれ、天井には四季折々の植物が書かれております。加藤清正公はここに豊臣秀頼を迎えたかったのではないかと言われております。
二重天守と言う方もおれば、三重天守と言われる方もおります。天守閣西側の曲輪はかつて加藤平左衛門が預かったことから平左衛門丸と呼ばれております。ここは「第三の天守」とも呼ばれており、国指定の需要文化財宇土櫓が江戸時代から現存しております。2016年の熊本地震では宇土櫓南側の続櫓が倒壊する被害がありました。